日曜日、東京競馬場では根岸ステークスが行われます。そこで今回は競走名の由来となっている根岸競馬場を取り上げます。
1853年のペリー来航から6年後、横浜港が開港すると、来日した外国人たちは居留地に洋式競馬を持ち込みました。1862年に現在の中華街一帯で行われた開催は、1周1200m、幅11mの円形馬場で開催されたと言います。しかし、この競馬場は外国人たちの住宅地となったため、1866年、日本で最初の本格的な競馬場施設を根岸の地に建設しました。
横浜郊外の、しかも高い丘の上にある根岸の地が競馬場の用地に選ばれたのはなぜか。それは、1862年の生麦事件(横浜の生麦村で江戸から帰る途中の薩摩藩士が行列の前を横切ったイギリス人を斬殺した事件)をきっかけに緊張が高まり、攘夷派と外国人との衝突を避けるため、東海道から離れた安全な場所にする必要があったからなのだそうです。
当初は居留外国人のみが楽しんでいた洋式競馬には次第に日本人も参加するようになり、1880年に結成された日本レースクラブの会員には、伊藤博文、松方正義といった、のちの総理大臣も名を連ね、競走馬を所有していました。根岸競馬場の跡地にある馬の博物館では、そんな明治政府の重鎮たちの勝負服を見ることが出来ます。
1880年の春に行われた日本レースクラブによる初開催には「The Mikado’s Vase Race」と銘打たれた番組が設けられ、明治天皇から優勝馬主賞品が下賜されました。これが伝統と栄誉ある天皇賞のルーツです。
1907年の馬券発売禁止後も競馬は細々と続けられ、1923年に馬券発売を認める念願の競馬法が成立。ところが、この年の9月に関東大震災が起きて根岸競馬場の施設は半壊してしまいます。競馬は翌年に再開され、1929年、建築家・J.H.モーガンの設計により鉄骨・鉄筋スタンドの工事に着手。中でも一等スタンドは、最上階に貴賓室が設置され、港や富士山が見渡せる東洋一のスタンドで、東京競馬場の「フジビュースタンド」には、この根岸競馬場一等スタンドのデザインが一部採用されています。
1936年の競馬法大改正後、根岸競馬場は日本競馬会横浜競馬場と名称を変え、1939年から横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)などの大レースが行われました。しかし第二次世界大戦が激化すると、競馬場は軍港が一望できるとの理由と作戦上必要な施設であるとして海軍省に接収され、1943年に76年の歴史に終止符を打ちました。
現在は根岸森林公園や馬の博物館などが整備されている跡地には、上記の一等スタンドが遺構として現存していますが、修復等はほとんど行われていません。近年、隣接する根岸住宅地区が管理していた在日米軍から返還される方向となったこともあり、文化財としての保存・活用に向けて検討が進められています。
2022/01/27 (木)
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大澤幹朗
1973年9月22日生まれ。千葉県出身。IBC岩手放送アナウンサー時代に岩手競馬のレース実況に携わり、メイセイオペラら名馬と出会う。2003年にフリー転身後、2006年よりグリーンチャンネル中央競馬中継キャスターに。2013年からは凱旋門賞など海外中継も担当。そのほか、WOWOWヨーロッパサッカー実況アナウンサーとしても活動中。