11日、新潟競馬場では関屋記念(GIII)が行われます。
今年で59回目を数え、新潟競馬場で行われる重賞としては新潟記念に次ぐ歴史(新潟記念は今年で60回目)を持つ関屋記念は、旧新潟競馬場があった「関屋」の名を残すために1966年に創設されました。
旧新潟競馬場(以下、関屋競馬場)は、1908(明治41)年、新潟市の関屋地区に建設された1周1600mの競馬場です。9月に初めての競馬が開催されましたが、翌月、明治政府により馬券発売が禁止。新潟競馬俱楽部は「補助金競馬」を続けましたが、馬券が発売できず経営難に陥りました。
1923(大正12)年に旧競馬法が制定されると、関屋競馬場を運営する新潟競馬俱楽部も全国11ヶ所の公認競馬倶楽部となり馬券発売が復活。この時期に競馬場誘致を画策していた名古屋地区の有志が関屋競馬場の名古屋移転を働きかけ、実現寸前までいった話は以前のコラムでも紹介しました。
※2023.1.26公開「幻の誘致移転計画~70周年・中京競馬場前史」参照
1937(昭和12)年、競馬法が改正され、統一した施行規則で競馬を行うために日本競馬会が設立。新潟競馬倶楽部も他の10倶楽部と合体しました。1943(昭和18)年、太平洋戦争の激化により関屋競馬場の機能は閉鎖され、施設すべてが陸軍軍医学校に提供されました。
戦後の新競馬法により日本の競馬が「国営競馬」と「地方競馬」に分かれると、1949(昭和24)年、新潟県は関屋競馬場を所有者である国から借りて「新潟県競馬」の開催が始まりました。
一方で、関屋競馬場は6年間の国営競馬の後、1954(昭和29)年に設立された日本中央競馬会の所有となりましたが、戦後、関屋競馬場で中央競馬が開催されることはありませんでした。
さて、下の画像は国土地理院のウェブサイトから引用し作成した1965年の空中写真です。
▲1965年の関屋競馬場と信濃川/国土地理院ウェブサイトより
画像上部にある弁当箱のような楕円形が関屋競馬場。その南側に流れているのは信濃川です。上流から流れてきた信濃川は大きく東にカーブしています。
今度は、同じく国土地理院のウェブサイトから引用した現在の新潟市中央区の地図です。
▲1965年の関屋競馬場と信濃川/国土地理院ウェブサイトより
信濃川は関屋大橋と書かれている辺りで、真っ直ぐに北へ向かう水路と東にカーブする本流とで二手に分かれています。
昭和のはじめ、新潟港は信濃川から運ばれてくる土砂によって水深が浅くなり、船の行き来が困難になると懸念されていました。さらに1960年頃になると新潟市内で地盤沈下による浸水被害が目立つようになり、新潟港の土砂対策と信濃川の治水対策として、1965年に「関屋分水路事業」を国として行うことになりました。
幅240~290m長さ約1.8kmという人口の川を7年かけて掘り上げる大事業。関屋分水路を通した一帯は急速に発展していた新潟市郊外の住宅地だったので、移転の必要がある家屋は693戸(870世帯)に及びました。そして、その代替地となるために、1964(昭和39)年12月、関屋競馬場は廃止となったのです。
病院、工場、商店、幼稚園、市営住宅、民営アパート、それに個人住宅など、ひとつの町がそっくり移動するような大規模移転でしたが、その多くが近くの関屋競馬場跡地に移り住み、用地補償は短期間で終了しました。
▲関屋分水路の空中写真(2007年撮影)/国土地理院ウェブサイトより
▲関屋地区地図/国土地理院ウェブサイトより
そして、1965(昭和40)年、関屋競馬場から15km離れた新潟市東部の現在地に新たな新潟競馬場が完成。中央競馬の開催も22年ぶりに復活しました。新潟競馬場は来年60周年を迎えます。
「関屋記念とは?」と訊かれて「最後の直線が658.7mの新潟競馬場外回りコースで行われる別定のマイル戦」と答えるのが普通の競馬ファン。
ご一読いただいたあなたには、ぜひ、「新潟港の土砂対策と信濃川の氾濫を防ぐために行った関屋分水路事業の代替地として廃止になった旧新潟競馬場の所在地を記念したレース」と答えて欲しいと思います(笑)。