競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「来月1日に開設100周年を迎える京都競馬場のハナシ(1)」です。
今週と来週のGIレースの舞台である京都競馬場は、来月1日に開設100周年を迎えます。
京都競馬場では、エリザベス女王杯とマイルチャンピオンシップ当日の夕方17時半から1500機のドローンによるナイトショーが行われるほか、京都競馬場の特別室「菊の間」を会場に将棋の第38期竜王戦の対局が水曜と木曜の2日間で行われるなど、100周年を記念した様々な催しが行われています。
ところで、100年前に開設され、100周年を迎えるのは現在の淀の地にある京都競馬場で、それより以前にも京都には洋式競馬の競馬場がありました。
その最初の地は京都市下京区にある島原。江戸時代には遊郭が立ち並ぶ花街だった島原に競馬場が新設されたのは今から118年前の1907(明治40)年のことでした。当時は、日清・日露戦争を受けた軍馬改良の必要性から馬券発売が黙許されていた時代で、同年に結成された京都競馬会は、翌1908(明治41)年の5月に島原での第1回京都競馬を開催しました。
場所柄、芸妓や僧侶たちも馬券に興じていたという島原競馬場でしたが、秋の第2回開催を前にした10月に政府から馬券禁止令が出され開催規模は縮小。政府からの補助金でかろうじて開催は続けられました。
1910(明治43)年、京都競馬会は京都競馬倶楽部と改称されました。会長に就任したのは園田実徳。武豊騎手の曾祖父・武彦七の実兄でした。元号が変わった1912(大正元)年、細々とではありながら開催を続けていた島原競馬場に事件が起きました。10月の秋季競馬が行われた直後の11月1日、火災により競馬場の大部分が消失してしまったのです。
島原競馬場は移転することになり、土地は京都ガス(現在は大阪ガスと合併)が買収しました。競馬場の跡地には京都リサーチパークという官民一体となった先端技術の集約施設が建設され1989年に開業しましたが、その計画段階での発掘調査では、平安京の遺構とともに、馬場の水はけをよくするための溝や蹄鉄が出土したそうです。
補助金競馬で財政難だった京都競馬倶楽部でしたが、当時、関東一の勢力者といわれた金子政吉が出資して、須(しゅう)知(ち)(現在の京丹波町)に競馬場を造営することになりました。工事半ばの1913(大正2)年9月に延期していた春季競馬を開催し、工事が落成した11月に秋季競馬を開催しました。
しかし、場所は都市部から遠く離れた京都府中部、丹波山地の山奥。山陰道の須知宿があり、現在でも国道の分岐点となっている交通の要所ですが、鉄道の山陰本線が須知を迂回して敷設されたこともあって観客は多くありませんでした。その中でも、各地の競馬会同様に余興としての景品競馬(勝馬投票)を行うなどの試みが続けられました。一方で、馬券発売再認可を願い、競馬法制定への動きも高まっていたのです。
1923(大正12)年3月、ついに競馬法が成立し、馬券発売が公式に認められました。須知競馬場でのこの年の春季京都競馬では手続きが間に合わず馬券発売ができませんでしたが、秋季開催からの馬券発売開始を目指して手続きを行っていました。
ところが、競馬法による秋季競馬の開催を認可してもらうための申請書類を管轄の畜産局に送付した翌日に関東大震災が発生。書類の到着が遅れて間に合わず、この年の秋季競馬は中止となってしまいました。
これと並行し、競馬法制定を機に、競馬場を交通が不便な丹波の地・須知から京都市周辺に移して、京都競馬倶楽部の発展につなげようという計画が動き出していました。京阪電鉄の社長を説得して、京都府紀伊郡淀の電鉄所有地・約27万7000㎡の地に競馬場を建設することで合意。1924(大正13)年、京都競馬場は11年間競馬が行われた須知から現在地の淀に移転することが決定しました。
かくして、1925(大正14)年の4月に始まった淀の京都競馬場新設工事でしたが、その土地は宇治川と淀川の中州にあたる広大な湿地帯であり、現在も馬場中央にある池は、当時長さ250m、幅65mもあるなど、排水鉄管の敷設、馬場の埋立や整地に取り掛かる工事は難航を極めたそうです。100年前、淀の地に京都競馬場が誕生した背景には、度重なる困難な道のりがあったのです。
(次回につづく)
