中央競馬は年末の開催が続いていますが、なかでも師走の中山風物詩とも言えるのが「暮れの中山」です。
▲中山競馬場のグランプリガーデンとヒマラヤスギ
中山競馬場の正門と新名所グランプリガーデンの間にそびえているのが大きなヒマラヤスギ。時には装飾が施されクリスマスツリーにも変身する中山競馬場のシンボルですが、その足下に、中山競馬の歴史を語るうえで決して欠かすことのできない人物の胸像が建てられてるのをご存知でしょうか。
中山競馬場の歴史に功績のあった人物と聞くと、「有馬記念」のレース名にもなっている日本中央競馬会の2代目理事長・有馬頼寧(ありま・よりやす)氏のことを思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、その胸像の人物は、有馬記念(中山グランプリ)をつくった有馬氏ではありません。
胸像の人物は肥田金一郎(ひだ・きんいちろう)氏(以下、敬称略)。“日本のグランドナショナル”中山大障害を創設した人物です。
肥田金一郎は1874年、東京で生まれました。日本三大金山のひとつに数えられる福島県の高玉鉱山を父から引き継いで経営していた肥田は、やはり父の影響で大の馬好きだったこともあり、福島県の馬産事業に深く関わるようになりました。
福島はかつて本州第一の馬産地でしたが、福島はおろか東北地方には公認競馬場が1カ所もありませんでした。そこで1913年、公認競馬の誘致を目指す「福島愛馬会」が組織され、肥田も活動の主唱者になりました。
そんな折、1908年に創設された静岡県の藤枝競馬俱楽部が、馬券発売禁止の影響もあって経営困難に陥っていました。それを聞きつけた肥田は、これを買収し福島に移転することに成功します。こうして1918年に福島競馬がスタートしました。
1920年、競馬倶楽部の全国組織「競馬協会」の理事に当選した肥田は、東京に戻り、理事長の安田伊左衛門(やすだ・いざえもん)らとともに競馬法制定に向け活躍しました。そして、競馬法が制定された3年後の1926年、肥田は千葉県の中山競馬俱楽部に招かれたのです。
当時の中山競馬は、競馬俱楽部内の内紛や、移転予定地が関東大震災の津波により壊滅的被害を受けたために、競馬法成立後も競馬が開催されていませんでした。(8/31号掲載「関東大震災と競馬」参照)
新たに中山競馬俱楽部の常務理事に就任した肥田は、近代的な競馬を行うために、レースコースと調教コースが別に設置された東洋一の競馬場を建設することを目指し、再びの移転先の選定に着手しました。松戸競馬場の陸軍への接収という急な移転で作られた旧中山競馬場は、1周が1600m弱しかなく、スタンドも貧弱でした。また、厩舎も名ばかりで、競走馬は近くの農家に預けるというのが実態だったのです。
旧競馬場のあった古作の別の土地を改めて候補に選んだ肥田でしたが、移転するために必要な土地の借り入れ交渉は思うように進みませんでした。倶楽部の内紛で長らく競馬開催ができず土地の賃料の支払いが滞っていたことから、周辺地権者の反感が強かったのです。
気づけば元号は、大正から昭和に変わっていました。(つづく)
2023/12/14 (木)
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大澤幹朗
1973年9月22日生まれ。千葉県出身。IBC岩手放送アナウンサー時代に岩手競馬のレース実況に携わり、メイセイオペラら名馬と出会う。2003年にフリー転身後、2006年よりグリーンチャンネル中央競馬中継キャスターに。2013年からは凱旋門賞など海外中継も担当。そのほか、WOWOWヨーロッパサッカー実況アナウンサーとしても活動中。