競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「有馬記念と水天宮」について。
※今回が2025年最後の更新です。次回の更新は1/8(木)になります。
いよいよ今年も有馬記念が近づいてきました。1年前の当コラムでは、年末の風物詩ともいうべき大一番の創設者でレース名にもなっている有馬頼寧(よりやす)について詳しく取り上げました。
▼2024.12.12
有馬頼寧のハナシ・前編
▼2024.12.19
有馬頼寧のハナシ・後編
今回は、そんな有馬記念の生みの親・有馬頼寧と、安産や子授け祈願の神社として知られる東京・日本橋の水天宮との深いつながりの物語をご紹介します。
有馬頼寧の有馬家は旧筑後(現在の福岡県)久留米藩の大名でしたが、居を構えた久留米城下に安徳天皇と平家一門を祀っていた祠がありました。
安徳天皇といえば、平安時代の末期に数え年3歳で即位した天皇です。平家が滅亡することになった1185年の壇ノ浦の戦いの際、平家の船に乗っていた8歳の安徳天皇は祖母・二位の尼(平時子)に抱きかかえられながら入水し崩御したのでした。
1620年、久留米藩の2代目藩主・有馬忠頼は、久留米城下の筑後川に臨む土地を寄進し、その祠を藩直轄の神社にしました。これが福岡県久留米市にある水天宮本宮です。それから約200年後の1818年、9代目藩主の有馬頼徳は、参勤交代の折に江戸でも水天宮をお参りできるようにと江戸の芝赤羽橋にあった有馬家の上屋敷(公邸)に分祀しました。これが東京の水天宮の始まりでした。
あるとき、社殿の前にぶらさがっている鈴の紐をお下がりにもらった妊婦さんが腹巻きとして使ったところ、殊のほか安産だったことが評判となりました。噂を聞いた多くの人々がご利益にあずかろうとしましたが、大名の上屋敷の中にあるため入ることができず、塀の外からお賽銭を投げ入れていたそうです。
そこで有馬家は毎月5日に、お参りできるように門を開きました。その時に生まれたのが「情け有馬の水天宮」という言い回しでした。
明治維新後、水天宮は有馬家の下屋敷(別邸)があった現在の地に移りました。ここで2009年から宮司を務めているのが有馬家の16代当主・有馬頼央(よりなか)さんです。頼央さんの父は、1年前のコラム後編でも触れた有馬頼寧の三男で直木賞作家の有馬頼義(よりちか)。つまり水天宮の宮司さんは、有馬記念の生みの親・有馬頼寧のお孫さんなのです。
祖父である有馬頼寧を継承できる仕事をしたいと考えていた若き日の頼央さんは、神職の資格を取って修業した後、有馬家と縁の深い水天宮を継いだのでした。
ところで、東京・日本橋の水天宮にお参りに行くと本堂に向かって左手前に「宝生弁財天(ほうしょうべんざいてん)」があります。そのご利益は、学業成就、芸能の才能向上、美と健康、そして金運向上です。
そして宝生弁財天には、有馬頼寧の揮毫による額も飾られています。有馬記念の必勝祈願には、レースの生みの親である有馬頼寧と浅からぬ縁がある水天宮でお参りするのもいいかもしれません。
▲水天宮本堂と宝生弁財天
▲水天宮の由緒
▲有馬頼寧の書による額
