競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「有馬記念の創設者、有馬頼寧のハナシ・後編」です。
戦後、戦犯として拘禁されてしまった有馬頼寧。その後、無罪が認められたものの、財産を差し押さえられた上に、富の再配分を目的とした財産税を課され、財産のほとんどを失ってしまいました。
そんな中、1954(昭和29)年、残った土地を売って作った資金で小説家をしていた三男・頼義の作品集『終身未決囚』を自費出版。この本が第31回直木賞を受賞し、表舞台から姿を消していた頼寧に再び光があたりました。
その頃、旧競馬法の制定や日本ダービーの創設など、日本の競馬に多大な功績を残し、「競馬翁」「日本競馬の父」と呼ばれた安田伊左衛門が日本中央競馬会の初代理事長を退任しました。1955(昭和30)年、農林省は安田の後任として頼寧を招請。推薦したのは、時の農林大臣・河野一郎でした。
「那須野牧場」「恵比寿興業」「グリーンファーム」で知られる競走馬のオーナー一族「河野家」の先々代・河野一郎は、頼寧が農相時代の秘書だったのです。
戦後6年間の国営競馬時代を経た各競馬場のさまざまな施設は、部分的に補修・修理は加えられても、国営という組織上、大がかりな改修工事は望めず、特に中山競馬場の大スタンドは危険な状態でした。改修しようにも、発足して間もない日本中央競馬会にはその資金もないという状況を打開するため、頼寧は河野一郎農相をはじめ日本政府に働きかけ、理事長就任の年の12月29日、「有馬特例法」と呼ばれる法律を成立させました。
「有馬特例法」は、日本中央競馬会の施設が震災などの被害や老朽化で改築が必要な場合、1960(昭和35)年12月31日までの間は、臨時に競馬を開催して収入を資金に充て、国庫納付の必要もないというものでした。
これにより、傷みが進み、戦時中の鉄材献納のために見る影もなくなっていた各競馬場の施設に再建の道が開けました。危険な状態だった中山競馬場のスタンドも改築。1956(昭和31)年秋、近代的なスタンドに生まれ変わった中山競馬場での競馬開催は、大いに賑わいを見せました。
その年の暮れに創設されたのが「中山グランプリ」でした。中山競馬場の新スタンド竣工を機に、暮れの中山競馬にも華やかで日本ダービーに匹敵するような大レースを作りたいと考えた頼寧は、戦前にプロ野球チームのオーナーを務めていたこともあり、プロ野球のオールスター戦のようにファン投票によって出走馬を選出し、ファンがより一層競馬に親しみを感じるような画期的なレースを企画したのです。
1956年12月23日、新しいスタンドの中山競馬場で第1回の中山グランプリが行われました。当時は芝2600mで行われたレースには12頭が出走。ファン投票2位だった4歳牡馬メイヂヒカリ(蛯名武五郎騎手/藤本富良調教師)が2着馬キタノオーに3馬身半差をつけて快勝しました。
▲中山競馬場メモリアルウォークの第1回中山グランプリのパネル
盛況のうちに終了した第1回中山グランプリからわずか17日後のことでした。1957(昭和32)年1月9日、有馬頼寧は急性肺炎で逝去。享年73歳でした。
日本中央競馬会理事長としての在位1年9か月。この短い期間に、有馬特例法成立や中山グランプリ創設、英国ジョッキークラブへの加入、日本短波放送(現ラジオNIKKEI)による場内放送開始、ファンサービス推進を目的としたサービスセンターの開設、場外馬券売り場の設置など、今日の日本競馬の隆盛につながる多くの施策が実行されました。それらを行った人物こそ、日本中央競馬会2代目理事長・有馬頼寧だったのです。
その多大な功績を讃え、中山グランプリは第2回から「有馬記念(グランプリ)」と改称されました。1996年(平成8)年には世界の競馬史上最高額となる875億円を売り上げ、ギネス世界記録に認定登録された有馬記念。有馬頼寧から名をとったレースは、競馬界のみならず日本の年末の風物詩として今も愛され続けています。