競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「有馬記念の創設者、有馬頼寧のハナシ・前編」です。
今年も残すところ半月あまりとなり、暮れの大一番・有馬記念が近づいてきました。
去年の優勝馬・ドウデュースが48万票近くという史上最多のファン投票を獲得し、ラストランとして出走する今年の有馬記念。そんなファン投票で出走馬を選定するというグランプリレースを創設したのは、もちろんレース名にもなっている日本中央競馬会の2代目理事長・有馬頼寧(よりやす)です。
その名前は競馬ファンなら誰もが知る有馬頼寧ですが、「有馬記念の創設者」ということ以外は案外と知られていません。そこで今年の年末は、「有馬頼寧」について2週にわたって取り上げようと思います。
有馬頼寧は1884(明治17)年12月17日、東京日本橋で生まれました。母方の祖父は昭和の時代に五百円札にもなった岩倉具視。一方、有馬家は旧久留米藩の大名で明治になって伯爵の爵位を授けられた華族でした。
有馬家の祖先が「有馬」を姓とするようになったのは室町時代のこと。戦国時代、その祖先が摂津国有馬郡(現在の神戸市北区、三田市、西宮市の一部)を領地にしたのがきっかけでした。言わずもがな有馬郡の語源は名湯「有馬温泉」。ですから「有馬記念」と「有馬温泉」の2つの「有馬」は、実は同じ「有馬」だったのです。
1910(明治43)年、東京帝国大学農科(現東京大学農学部)を卒業した頼寧は、欧州外遊を経て農商務省に入省。農政に携わり、1918(大正)からは母校・東京帝国大学農科で講師、助教授として教鞭をとりました。この頃から社会問題に関心を持ち、労働者のための夜間学校を私財を投じて創設したり、女子教育、農民の救済、部落解放運動などの社会活動で活躍。日本農民組合の創設にも尽力するなど異色の華族として知られました。
1924(大正13)年には大学を辞めて旧藩地の福岡から衆議院議員選挙に立候補し当選。1927(昭和2)年、父の死去に伴い爵位を継承したため失職となりますが、2年後に貴族院議員に当選しました。1937(昭和12)年、第一次近衛内閣の農林大臣に就任。日中戦争が拡大する中、軍部を抑えるため広範な国民的組織を結成することを目指して大政翼賛会を組織し、1940(昭和15)年、初代事務総長に就きました。
しかし、軍部や内務官僚、右翼の国体論者と相容れず、わずか5ヵ月で辞任。政治の表舞台から身を引きました。
その後、大政翼賛会は国民を管理・統制する組織に変わったことから、戦後の1945(昭和20)年12月、頼寧は大政翼賛会に関わったことを理由にA級戦犯として巣鴨プリズンに収容されました。しかし、無罪が認められ翌年8月に釈放。「何の理由で自分が戦犯になったのかわからない」と話したといいます。
頼寧は様々な政治・社会活動の他に、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名でした。1936(昭和11)年、職業野球リーグの結成を目指していた読売新聞社社長・正力松太郎からの呼びかけに応じ、職業野球団「東京セネタース」のオーナーになりました。
上院議員を意味する英語「senator」が名前の由来といわれる東京セネタースは、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍とともに日本初のプロ野球組織「日本職業野球連盟」を結成した7球団の1つで、現在の北海道日本ハムファイターズのルーツにあたります。
頼寧は、西武鉄道(現在の西武新宿線のルーツ)と共同出資して上井草(東京・杉並区)に3万人収容の野球場を建設。この上井草球場は日本初のプロ野球専用球場でした。現在のNPBのルーツにあたる日本野球連盟や戦時中の日本野球報国会の相談役を歴任し、プロ野球の育成発展のために献身した頼寧は、没後の1969(昭和44)年、野球殿堂入りを果たしました。
▲野球博物館の有馬頼寧のレリーフ
一方で、戦前、農政に携わってはいたものの、どちらかというと競馬自体とは無縁だった頼寧が「世界一馬券が売れるレース」の名前になった経緯はどういったものだったのでしょうか。続きは次回にしたいと思います。