年明けから開催が続いている中京競馬場は今年、開設70周年を迎えました。今回は、中京競馬場が開設される以前、今からちょうど100年ほど前の1920年代に何度も計画が持ち上がっては立ち消えとなった誘致・移転計画のハナシをご紹介します。
中京競馬場の開設は第2次世界大戦後の1953年ですが、名古屋地区では、1907年の名古屋港開港をきっかけにした近代産業都市への発展を背景に、馬産事業の進展と娯楽提供の観点から競馬場誘致の動きが続いていました。しかし、1923年4月に公布された旧競馬法を改正して新たに名古屋地区に競馬場を設置するよりも、既存の競馬場を移転する方が望みがあると考えた地元の有志は、旧競馬法公認の11競馬倶楽部からの誘致・移転を繰り返し計画していたのです。
旧競馬法公認11競馬倶楽部の1つ新潟競馬倶楽部は、「関屋記念」のレース名にもなっている新潟市内の関屋地区にあった当時の新潟競馬場で競馬を開催していました。しかし旧競馬法が成立した時期には経営困難に陥っていて、これに目をつけた名古屋地区の有志は、新潟競馬場の名古屋への移転を働きかけました。
移転先は尾張四観音の一つとして知られる甚目寺観音がある辺り(現在の愛知県あま市)。1923年8月の新潟競馬倶楽部の臨時総会で名古屋移転が一度は決議されました。ところが翌月の9月1日、関東大震災が首都圏を襲い、日本の社会・経済に深刻なダメージを与えました。また、移転に反対する新潟の市民が財政援助を申し出るなどしたため、12月、名古屋移転計画は挫折しました。
2年後の1925年、今度は、内紛問題が続いていた中山競馬倶部から競馬開催の権利を譲り受け、中京地区に競馬場を建設しようという計画が明るみになりました。場所は現在の中京競馬場とほぼ同じあたり。オートバイ競走場や野球グラウンド、テニスコート、住宅地を併設するという壮大な試みだったそうです。しかし、有志間での利害対立なども表面化し、実現しませんでした。また同じ頃には、福島競馬倶楽部にも中京地区への競馬場誘致の働きかけがおこなわれましたが、これもまとまらず立ち消えとなりました。
元号が昭和に変わった1927年には、宮崎競馬倶楽部からの移転計画が持ち上がりました。1907年から戦時中の1943年まで競馬が行われた宮崎競馬場は、戦後は小倉競馬場の復旧・再興が優先されたために、以後、競馬は行われず、現在はJRA宮崎育成牧場となっている場所です。この時の移転計画も訴訟問題にまで発展したものの、実現しませんでした。
昭和初期には名古屋同様に、盛岡・仙台・岡山・広島・高知・熊本などの都市でも誘致運動が行われていたようです。しかし、日本競馬会の発足、そして太平洋戦争勃発という時代の流れの中、旧競馬法下で新たな競馬場が設置されることはありませんでした。ただ、こうして歴史を振り返ると、関東大震災が起こらなければ新潟競馬場はなくなっていたかもしれませんし、有志同士が揉めなければ有馬記念は中京競馬場で行われていたかもしれない…などと考えると、なんだか不思議な感じがします。
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大澤幹朗
1973年9月22日生まれ。千葉県出身。IBC岩手放送アナウンサー時代に岩手競馬のレース実況に携わり、メイセイオペラら名馬と出会う。2003年にフリー転身後、2006年よりグリーンチャンネル中央競馬中継キャスターに。2013年からは凱旋門賞など海外中継も担当。そのほか、WOWOWヨーロッパサッカー実況アナウンサーとしても活動中。