競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。今回のテーマは「名手・横山富雄のハナシ」です。
今年の日本ダービーはダノンデサイルが制し第91代のダービー馬となりました。ダービー3勝目となった横山典弘騎手は56歳3か月4日での勝利となり、武豊騎手の持つ最年長ダービー勝利と、最年長JRA・GI勝利の記録を更新。自身の持つJRA重賞最年長勝利記録も更新しました。
皐月賞での発走直前の勇気ある出走取り止めの判断、ダービーでの絶好のポジション取りなど、息子である和生騎手や武史騎手にとって、まだまだ高い目標であり続けていることを証明してくれました。
そこで今回は横山典弘騎手のダービー優勝を祝して、JRA初の父子3代の騎手ファミリー横山家の原点と言うべき、典弘騎手の父であり和生騎手や武史騎手の祖父である故・横山富雄さんについて取り上げます。
横山富雄(以下敬称略)は、1940(昭和15)年2月25日、北海道豊浦町の農家に生まれました。実家の近くには、1955年の天皇賞・春を制したタカオーや、1954年の皐月賞・菊花賞、1955年の天皇賞・秋も制したダイナナホウシュウを生産した飯原農場があり、子供の頃からよく遊びに行っていました。
東京への憧れが強かった富雄は、1955年15歳の時に上京。史上初の三冠馬セントライトの鞍上として知られる小西喜蔵調教師の下に入門し、6年かけて1961年3月に騎手としてデビューしました。同期には、ミスターシービーの吉永正人やマルゼンスキーの中野渡清一がいました。
デビュー3年目の1963年、急遽、騎乗機会が巡ってきたフジノオーで中山大障害・秋を制し重賞初勝利を飾りました。フジノオーと横山富雄のコンビは、翌1964年の中山大障害を春秋連覇すると、1965年春の大障害も67kgを背負って勝利し中山大障害4連覇という偉業を達成。この年の秋の大障害で2着に敗れたフジノオーは英国ジョッキークラブからの招待を受け、1966年、英国最高峰のグランドナショナルに現地の騎手を背に出走しました(結果は競走中止)。過去グランドナショナルに出走した日本調教馬は、このフジノオーただ1頭です。
1968年、富雄はフジノオーと同じ藤井一雄オーナーが所有するフジノホマレで中山大障害・春を制し、中山大障害・自身5勝目をあげました。障害100勝も達成したこの年の障害での成績は、勝率が4割超、連対率は6割超という驚異的な数字でした。秋には小西厩舎から独立し、フリー騎手の先駆者となりました。
1969年、主戦騎手が騎乗できなくなったメジロタイヨウの鞍上に八木沢勝美調教師から白羽の矢が立った富雄は、アルゼンチンジョッキークラブカップ(現アルゼンチン共和国杯)でスピードシンボリをハナ差抑え重賞勝ちすると、天皇賞・秋でもコンビを組んで優勝。富雄にとっても、メジロの総帥・北野豊吉にとっても、悲願の八大競走初制覇となりました。
1970年には平地でも100勝を突破。中央競馬史上初めて平地・障害両方での通算100勝を達成しました。この年の夏、騎乗停止となった富雄は八木沢師の薦めで函館滞在中のメジロの馬に調教をつけることになり、「メジロ」との関係が深まりました。メジロ牧場があった洞爺湖町と富雄の故郷・豊浦町は隣同士でもありました。
1971年、障害の騎乗をやめ平地に専念することになった富雄は「メジロ」の主戦となり、メジロムサシで目黒記念・春、天皇賞・春、宝塚記念と3連勝。目黒記念・春や宝塚記念で2着に下した相手はメジロアサマで、“メジロ・ワンツー”でした。メジロアサマは、その仔メジロティターン、孫メジロマックイーンと父子三代天皇賞制覇を成し遂げましたが、富雄もまた、騎手として天皇賞父子三代制覇を成し遂げることになります。
職人肌の堅実な騎乗で、「ここ一番で頼りになる」と、関東のファンからの人気も高かった騎手・横山富雄。1973年にはニットウチドリとのコンビで桜花賞・ビクトリアカップの牝馬二冠を達成しました。ニットウチドリとのコンビでは暮れの有馬記念でも、ハイセイコーやタニノチカラら牡馬の強豪を引き連れ、逃げ粘っての2着と健闘。長距離レースでのペース判断や技術には卓越したものがありました。
ところで横山家は函館記念との縁も深く、富雄は1971年メジロムサシ、1974、75年ツキサムホマレで連覇の計3勝。富雄の長男・賀一は2002年ヤマニンリスペクトで優勝。次男・典弘は1996年ブライトサンディー、2004年クラフトワーク、2011年キングトップガンの3勝、典弘の長男・和生が2021年にトーセンスーリヤで勝利し、今年で60回目を数える函館記念を一族で計8勝しています。
1975年、富雄は香港のハッピーバレー競馬場で行われるインターナショナルインビテーションカップに招待され参戦します。13頭立ての1800m戦「ザ・ジョッキーインビテーショナルカップ」では、英国ダービー9勝のレスター・ピゴット(英)、凱旋門賞4勝、ジョッケクルブ賞9勝のイヴ・サンマルタン(仏)ら世界の伝説の名騎手を相手に見事勝利しました。
同じ年の秋にはツキサムホマレとともにワシントンDC国際へ参戦。フジノオーの海外遠征時は現地騎手が、メジロムサシのワシントンDC国際は野平祐二が騎乗したため、富雄にとっては初の海外ビッグレースでの騎乗でした(結果は9着)。
富雄の最後のGI勝利は1978年ファイブホープで制した優駿牝馬。二冠牝馬のニットウチドリは2着に惜敗していたオークスを勝利し、騎手として牝馬三冠を制しました。
1982年調教中に倒れ、翌年引退。その後は長く調教助手を務めました。次男・典弘のデビューは1986年。また、ニュージーランドからの「逆輸入」でJRAの騎手になった長男・賀一のJRAデビューは1992年だったので、親子同時に騎手として現役生活を送ることはありませんでした。
また、調教助手を引退後は、孫・和生のデビューを楽しみにしていたということですが、2009年9月、69歳で亡くなりました。和生の騎手デビューはその2年後。典弘の三男・武史のデビューはさらに6年後のことです。
私が競馬を始めて間もない頃、場外馬券売り場で並びながら、当時売り出し中だった横山典弘騎手の話題を友人としていると、後ろに並んでいたベテランファンの男性が「親父もいいジョッキーだったんだよ」と教えてくれたのを今でも覚えています。
和生騎手や武史騎手が活躍する中、典弘騎手が今も現役をつづけ、56歳にしてダービーを制していることの凄さを身に染みて感じます。そして、その原点である昭和の名手・横山富雄の名前と実績も、和生騎手や武史騎手の世代の皆さんにも伝えていけたらと思います。