競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。今回のテーマは「全馬無事に」です。
14日、京都競馬場でGII・日経新春杯が行われます。
関西地区の地上波テレビで日曜競馬を中継している関西テレビの実況アナウンサーが、毎年、このレースのゲートが開く直前、『全馬無事に』という一言を入れているのをご存知でしょうか。
「全馬無事に完走して欲しい」という想いは、真に競馬を愛する人たちにとって全てのレースに向けてあるものです。ただ実況アナウンサーが発走直前に『全馬無事に』と入れているのは、私が知る限りこのレースだけ。しかも40年以上、毎年、続いているのです。
その理由は今から46年前の1978年1月22日、粉雪が舞う京都競馬場での出来事にありました・・・。
それは、馬券発売も競馬中継も東西に分かれていて、競馬ファンや関係者も今とは比べ物にならないほど「東西対抗」の意識が高かった時代。当時は「レベルが低い」とされ、劣勢だった関西馬の中にあって、額の流星と栗毛の馬体の美しさから「流星の貴公子」と呼ばれた馬がいました。
その馬の名はテンポイント。
当時の関西の3歳(現2歳)王者決定戦・阪神3歳ステークスで7馬身差の圧勝劇を演じた際、杉本清アナウンサーが残した『見てくれこの脚! これが関西の期待テンポイントだ!』という名実況が、関西の競馬ファンにとってテンポイントがいかなる存在だったかを表現していました。
しかし、同世代の関東馬には「天馬」と呼ばれたトウショウボーイや伏兵グリーングラスがいた他、アクシデントの不運などもあり、関西の期待・テンポイントはクラシックを勝つことができませんでした。
暮れの有馬記念もトウショウボーイの2着に敗れた後、トウショウボーイが回避した天皇賞・春で初の八大競走制覇。しかし、続く宝塚記念は復帰したトウショウボーイの前に再び2着に敗れたのでした。
「TT(トウショウボーイとテンポイント)対決」の対戦成績がトウショウボーイの全勝で迎えた1977年の有馬記念は、日本競馬史上屈指の名勝負となりました。「TT」2頭のマッチレースをテンポイントが3/4馬身差制し、テンポイントは初めてトウショウボーイに勝利しました。トウショウボーイはこれがラストランでした。
ちなみに、この有馬記念が当時4歳の私が今は亡き父に連れられて競馬場で初めて競馬を観戦したレースです。父は「TT」に次ぐ3着に突っ込んできた「G」グリーングラスのファンで、私も緑色のメンコ姿のグリーングラスを応援していました。
ところが後年、『あの“TTG”で決まった有馬記念も当然グリーングラスを応援してたんでしょ?』と父に質問したところ、『いや、あの日だけはテンポイントを応援してた』と、まさかの答えが返ってきました。今思えば、なるほど、テンポイントとはそういう存在だったんだと納得します。
ついにトウショウボーイに勝利し、満票で年度代表馬に選出されたテンポイントの陣営は、海外遠征を行うと発表しました。2月にイギリスに向け出発する前の壮行レースとして出走することになったのが、1978年1月22日の日本経済新春杯(翌年から「日経新春杯」に改称)。ハンデ戦で課された斤量は「66.5kg」でした。
堂々と先団でレースを引っ張っていたテンポイントが、4コーナーに差し掛かったところで突然、後ろから崩れ落ちるように失速。父とテレビの競馬中継をみていた私は、左後肢を必死に上げようとするテンポイントの姿と、杉本清アナウンサーの『これはえらいことになりました!』という悲痛の叫びを今も忘れることができません。
安楽死とはせず治療・闘病の選択をしたこと、過度に重い負担重量を課すことなど、テンポイントの事故は日本競馬に多くの問題を提起し、その後にも大きな影響を与えました。
4年ぶりに淀に戻る日経新春杯。どれだけの時を経ようとも、「全馬無事に」の願いは変わらないのです。