1926年、中山競馬俱楽部の事実上の最高職である常務理事に就任した肥田金一郎(ひだ・きんいちろう)は、手狭な旧中山競馬場があった古作の別の土地を移転先に選びました。しかし、倶楽部の内紛で競馬が開催されなかったために借地の土地賃料が払えなかったことから、移転するために必要な土地の借り入れ交渉は難航しました。
そんななか、肥田に救いの手を差し伸べたのが、中山町の中村勝五郎(なかむら・かつごろう)町長ら地元の有力者たちでした。地元地権者らの信用回復に向け熱心に交渉を続け、ついに1927年、現在の中山競馬場の土地の買収・貸借契約の締結に至りました。中山競馬場のパドック脇には、馬主でもあった中村勝五郎氏の胸像が建てられています。
▲中山競馬場移転先確保に尽力した中村勝五郎氏
ようやく競馬場用地を確保したものの、今度は工事施行の利権をめぐり内紛が噴出。工事反対派が4コーナー付近に立ち入り禁止の標識柵を立てたり、馬場内に釘をばら撒くなどの妨害行為を行い、裁判沙汰にもなりました。
これには『もう中山はやめて広島あたりに認可したらどうだ』という声もあがり、畜産局から『早く開催しなければ認可を取り消す』と脅され、ようやく和解が成立。1928年1月、70日余りの突貫工事で完成した新しい競馬場で、競馬法施行後初となる中山競馬が開催されました。
ところで、中山競馬場のコースというと、ゴール前の急坂や、障害コースの深い谷(バンケット)が思い浮かびますが、こうした凹凸の激しい地形は作為的に設けられたものではなく、中山競馬場がある古作の地の自然の地形でした。
そんな起伏の変化に富んだ中山競馬場の用地に早くから着目していた肥田は、1930年に日本ダービーが創設されたことに刺激を受け、“日本のグランドナショナル”「大障害競走」を創設しようと構想を練りました。障害馬場の設計は陸軍騎兵学校の指導で進められ、1933年末に日本最大の障害コースが完成しました。
第1回「大障碍特別競走」は、1934年12月5日、距離4100m、高さ1m60㎝の大竹柵、高さ1m40㎝・幅220㎝の大土塁(赤レンガ)、高さ150㎝・幅270㎝の大生垣の“三大障害”を含め、合わせて10回の障害飛越と、5m、4m6㎝、4m57㎝の3つの坂路を昇降するという、当時の障害競走の常識をはるかに越えた過酷な舞台で行われました。1着賞金は1万円。これは東京優駿競走と並び当時最高の賞金額を誇るレースでした。
4頭立てのレースを制したのは、稲葉幸雄騎乗のキンテン。馬主は肥田金一郎でした。その後「大障害特別」は「中山大障害」と名を変えて春秋2回の開催となり、「華の大障害」「暮れの中山の名物レース」として定着。春季競走は2001年から「中山グランドジャンプ」と改名されて国際競走となりました。
こうして肥田は1930年からは正式に理事長に就任し中山競馬をけん引しましたが、在任中の1936年8月11日、直腸癌により62歳で死去しました。
翌1937年にはその功績を讃えて中山競馬場に胸像が建立されました。この年には、公認11倶楽部を統合した新組織・日本競馬会が発足。肥田は、かねてから全国競馬倶楽部の統合組織設立の必要性を主張していました。
中山大障害をつくった男・肥田金一郎。その意志は、のちに有馬記念の名前ともなる有馬頼寧らに引き継がれ、中山競馬の発展につながっていったのです。(了)
▲中山競馬場発展の立役者・肥田金一郎氏
※次回の更新は1/4(木)を予定しています。お楽しみに!