競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「6月中旬の宝塚記念」について。
今年は暑さや梅雨の影響を考慮して日程を2週繰り上げ、安田記念翌週の実施となった宝塚記念。今回で66回目を数える宝塚記念が6月中旬に行われるのは31年ぶりです。
「関西版有馬記念」として1960年に創設された宝塚記念は当初「3歳以上(当時の表記は4歳以上)」の出走条件で6月末から7月初旬に行われていました。しかし1968年から開催時期を1か月前倒しして5月末から6月初旬に行われるようになり、出走条件が「4歳以上(当時の表記は5歳以上)」となりました。
この「古馬限定」の宝塚記念は以降1986年まで続き、この間1984年には「GI」に格付けされました。
出走条件が再び「3歳以上(当時の表記は4歳以上)」となったのが1987年。これに伴い、ダービーやオークスからも出走しやすくなるように開催時期も「オークスの3週後」「ダービーの2週後」に繰り下げられ、「6月中旬」となりました。以後1994年までの8年間が前回の「6月中旬の宝塚記念」です。
まだNHKマイルCやヴィクトリアマイルの創設前、大阪杯がGIになる前の時代。宝塚記念は、4月下旬の天皇賞(春)や、オークス前週の5月中旬に行われていた安田記念を走った馬たちが激突する舞台でした。
1987年(第28回)は、天皇賞(春)2位入線失格のニシノライデンや安田記念2着のニッポーテイオーらを相手にシンボリルドルフ世代の6歳馬(当時の表記は7歳)スズパレードが勝利し、初のGIタイトルを手にしました。
1988年(第29回)は、天皇賞(春)を勝ったファン投票1位のタマモクロスと、安田記念を勝った同2位のニッポーテイオーの一騎打ち。“白い稲妻”タマモクロスが2着ニッポーテイオーに2馬身半差をつけ勝利しました。
元号が平成に変わった1989年(第30回)は、武豊騎手とのコンビで天皇賞(春)を5馬身差のレコード勝ちしたイナリワンが前走につづいて弱冠20歳の若武者を背にGI連勝。休養中のオグリキャップ、スーパークリークとともに“平成三強”と呼ばれました。(2024.6.20「イナリワンと穴守稲荷」参照)
1990年(第31回)は、安田記念で従来のタイムを1.8秒更新しレコード勝ちしたオグリキャップが圧倒的1番人気に支持される中、3番人気のオサイチジョージが先行策から抜け出して優勝。唯一のGI勝利を挙げました。
阪神競馬場の馬場改修工事のため京都競馬場で行われた1991年(第32回)は、天皇賞(春)で完勝のメジロマックイーンと、同4着だったメジロライアンが単枠指定。距離適性で勝るメジロライアンが2着メジロマックイーンに1馬身半差つけ勝利しキャリア唯一のGIタイトルを手にしました。宝塚記念におけるメジロのワン・ツー「目白記念」は1971年(第12回)の1着メジロムサシ・2着メジロアサマ以来20年ぶりでした。
直線に坂ができるなど新装なった阪神競馬場で初めて行われた1992年(第33回)。天皇賞(春)を連覇したメジロマックイーンが回避する中、9番人気のメジロパーマーが逃げ切り勝ち。前年に障害を2度使って力をつけた伏兵は暮れの有馬記念も15番人気の低評価を覆して勝利し春秋グランプリ制覇を果たしました。
「皇太子殿下御成婚奉祝」として行われた1993年(第34回)は、前走の天皇賞(春)で3連覇を阻止されていたメジロマックイーンが最強を証明する完勝。宝塚記念は「メジロ」の3連勝となりました。
そして最後の「6月中旬の宝塚記念」は1994年(第35回)。天皇賞(春)をレコード勝ちしたビワハヤヒデが1番人気に応えて再びレコードタイムで勝利しました。1歳下の弟ナリタブライアンもダービーを勝って2冠を制したばかり。秋の兄弟対決実現へファンの期待が高まったのでした。
翌1995年の宝塚記念は、1月に発生した阪神淡路大震災の影響でダービー翌週の6月4日に京都競馬場で行われました。また1996年にはNHKマイルCが創設され、オークス前週に行われていた安田記念がダービーの翌週に移動。宝塚記念は4年間7月に行われた後、2000年から去年まで25年間「6月下旬」に行われてきました。
昭和から平成へ―――。以前の「6月中旬の宝塚記念」は競馬ブームと呼ばれた時代に行われました。あれから30年以上の時を経た令和の「6月中旬の宝塚記念」も熱いレースになることを期待しています。