来週8月15日は終戦の日です。全世界で8500万人ともいわれる人類史上最大の犠牲者を出した第二次世界大戦。1941年12月8日の真珠湾攻撃から日本が突入した太平洋戦争は当時の競馬にも大きな影響を与えました。
戦時中に射幸心を煽るといった批判がある中でも、国庫納付金や軍資としての軽種馬をもたらす軍需産業として競馬は開催されました。戦局の悪化とともに、1943年以降、阪神(鳴尾)競馬場、横浜(根岸)競馬場などの各競馬場が軍事施設に転用されるなどした一方、京都競馬場と東京競馬場は軽種馬生産と能力検定の場として存続し、馬券を発売しない能力検定競走として競馬が施行されました。
1944年の第13回日本ダービーも無観客、かつ馬券発売がない能力検定競走として行われました。優勝したのはカイソウ。米国の歴史的名馬マンノウォーの直仔・月友を父に持ち、北海道の錦多峯(にしたっぷ)牧場で生産された栗毛馬でした。茨城県栗山牧場生産のウィナーズサークルが1989年の第56回日本ダービーを勝ったのを最後に、ダービーは34年連続で北海道産馬が制していますが、北海道産初のダービー馬がカイソウでした。
その後、カイソウは秋の京都で、長距離特殊競走という能力検定競走(現在の菊花賞)に出走し、再び1着でゴールしました。ところが、この年はスタート地点が変更され、1、2周目とも内回りコースを回るべきところを、騎手への伝達が不十分で、全ての馬が外回りコースを走ってしまい、全馬失格。結果、レース不成立という裁定が下されてしまったため、カイソウは幻の二冠馬となりました。
悲運は引退後もつづきました。平和な世ならば、種牡馬にならずとも故郷・北海道で悠々自適な余生が送れたはずのところ、カイソウは軍馬として引き取られたのです。その後の消息は戦中の混乱で不明となりました。
尾形藤吉厩舎の主戦騎手で、ダービー馬ハクチカラとのアメリカ遠征で習得した「モンキー乗り」を日本に導入したことで知られる他、調教師としてメジロアサマやトウショウボーイを管理した保田隆芳は、騎手時代の1941年から終戦までの5年間、兵役に就きました。21歳から26歳までの期間、中国北部に派遣され、歩兵隊の蹄鉄工兵を経て機関銃隊に入るなどし、終戦後の1946年、競馬再開に合わせ騎手として復帰しました。
サクラユタカオー、サクラバクシンオー、サクラローレルなど、数多くの“サクラ”の名馬を手掛けた境勝太郎も、騎手時代の1944年、24歳の時に徴兵を受けました。クリヤマトで農商務省賞典(現・皐月賞)を勝利してクラシックを初めて制し、私生活では結婚を果たした直後でした。激戦地ガダルカナル島への要員でしたが、入隊前日に日本軍が壊滅し戦地行きを免れました。その後、旭川で無線係を務めていた時に終戦を迎えました。
保田や境よりも3歳年下、1923年生まれの前田長吉は、1942年、尾形藤吉厩舎の見習い騎手となりました。翌年、厩舎の主戦だった保田が召集中だった上、兄弟子の八木沢勝美のお手馬が重複したため、自厩舎所属の牝馬クリフジに騎乗することになり、その後、全11戦で手綱をとりました。クリフジは脚部不安のため5月という遅いデビューでしたが、3戦目の東京優駿を大きく出遅れながら2着に6馬身差をつけて勝利しました。20歳3か月という若さでのダービー勝利は、今でも史上最年少記録です。
クリフジは、その後も阪神優駿牝馬(オークス)を10馬身差、京都農商省賞典四歳呼馬(後の菊花賞)はレース史上唯一の大差勝ちで勝利して、変則クラシック三冠を達成。1944年5月に11戦全勝の戦績で引退しました。クリフジの引退から4か月後、前田長吉は、晴れて見習いから正規の騎手となりましたが、その矢先、軍隊から召集。満州に渡ることになり、競馬に騎乗することはありませんでした。戦後は旧ソ連によりシベリアに抑留されて強制労働を強いられ、23歳になったばかりの1946年2月28日に病死しました。
終戦から今年で78年。今もこうして私たちを楽しませてくれている競馬の歴史の中に、戦争の犠牲となった悲運のダービー馬や若きダービージョッキーがいたことを忘れることなく、後世に伝えていきたいものです。
終戦の日を前に ~太平洋戦争と競馬~/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ
- 09/21 (木) 1973年の競馬/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ
- 09/14 (木) 今さら聞けないセントライトのハナシ/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ
- 09/07 (木) ディープインパクトが父を超える日/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ
- 08/31 (木) 関東大震災と競馬/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ
- 08/24 (木) 夏休みの宿題(2) ~競馬計算ドリル~/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ

大澤幹朗
1973年9月22日生まれ。千葉県出身。IBC岩手放送アナウンサー時代に岩手競馬のレース実況に携わり、メイセイオペラら名馬と出会う。2003年にフリー転身後、2006年よりグリーンチャンネル中央競馬中継キャスターに。2013年からは凱旋門賞など海外中継も担当。そのほか、WOWOWヨーロッパサッカー実況アナウンサーとしても活動中。