競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。今回のテーマは「サッカーボーイの函館記念が不滅のレコードである5つの理由」です。
早くも今夏の最終週を迎える函館競馬場では、最終日の14日に函館記念(GIII)が行われます。
今年、節目の60回目を数える函館記念が芝2000m戦になったのは第4回から。以降56年の歴史の中でレースレコードにしてコースレコードは、1988年の第24回函館記念でサッカーボーイがマークした1:57.8です。
芝2000mではJRA史上初めて1分57秒台が計時された当時の日本レコードが、いかにして生まれ、なぜ35年もの間いまだ破られない不滅のレコードなのでしょうか? 今回はその理由を探ります。
(1)当時の函館の芝は「野芝」だった
1988年当時の函館競馬場の芝は現在のような「洋芝」ではなく、いわゆる「野芝」を使用していました。
一方、札幌競馬場にはこの年まで芝コースがなく、翌年(1989年)に洋芝の芝コースを設置。これに倣って函館競馬場の芝も1994年に洋芝となりました。
一般的にクッション性の理由から野芝より洋芝の方が時計がかかると言われていますから、現在のように100%洋芝で行われている函館記念で野芝時代のレコードを更新するのは難しいだろうという仮説が立ちます。
(2)8月下旬の開催で豪華メンバーが集った
当時の北海道シリーズの開催順は、現在のような「函館→札幌」ではなく「札幌→函館」の順でした。秋の本番により近い後半の開催は、芝コースのない札幌ではなく、芝コースのある函館で行われていたのです。
ちなみに当時「ダート2000m」で行われていた札幌記念はこの年は7月3日に行われ、一方の函館記念は8月21日。イメージとしては、現在の札幌記念のような秋に向けた夏の大一番が当時の函館記念でした。
なかでも1988年の函館記念は「超」の付く豪華メンバー。メリーナイス、シリウスシンボリという2世代のダービー馬に、2冠牝馬マックスビューティ、前年の最優秀3歳(当時)牡馬サッカーボーイという4頭のGI馬に加え、パッシングパワー、マイネルグラウベンといった重賞ウイナーも名を連ねました。
「夏のハンデGIII」という条件自体は今と同じですが、すっかり「ローカルのハンデ重賞」となった現在の函館記念とはメンバーレベルがまるで違っていたのです。
(3)少雨で高速馬場だった
メンバーレベルが高かったとしても、1:57.8はやはり破格です。実際、洋芝になる前の函館記念で1分57秒台が出たのはこの年以外にはなく、1分58秒台も1986年のニッポーテイオーがマークした1:58.6のみです。
そこで、1988年の函館の野芝の馬場状態を知るべく、当時を知るベテラン競馬記者に話を聞くと、「この年は特に時計が出やすい馬場だった」という証言を得ました。
気象庁のHPにある過去の気象データから1988年8月の函館の降水量を調べたところ、8月12日に33.5ミリの雨を観測した後、レース当日の8月21日までの9日間まったく雨を観測していなかったことが分かりました。
前日の8月20日に行われた平場の4歳以上OPの芝2000m戦はわずか4頭立てでしたが、63キロを背負って逃げ切ったアキヒロホマレの勝ち時計は2:00.5。頭数などの条件を考えると、1988年8月の函館競馬場は時計が出やすい馬場だったと推察できます。
(4)先行馬が競り合ったことで超ハイペースとなった
その上で、実際のレース映像とラップ構成を見ながら検証します(JRAのYouTube公式チャンネルより)。
映像を見ると、6.メイショウエイカン、2.アズマグリント、10.マイネルグラウベンら先団グループがかなり競り合いながらレースを引っ張っているのが分かります。
前半1000mの通過は57.7。イクイノックスが1:55.2という最新の芝2000mの日本レコードを記録した去年の天皇賞・秋でジャックドールが刻んだ前半1000mのラップが同じ57.7ですから、まさにレコードが生まれるハイペースだったと言えるでしょう。
(5)サッカーボーイが規格外の馬だった
では、サッカーボーイの強さとははどんなものだったのでしょうか。
不滅のレコードを叩き出した1988年の函館記念で、サッカーボーイはハイペースの中、向正面から徐々に進出。下り坂を利用し3コーナー過ぎには先団に並び、直線では後続を突き放す一方。最後は鞍上の河内洋騎手が流す余裕も見せての5馬身差の圧勝でした。
阪神3歳Sをレコードで制し「テンポイントの再来」と言われたサッカーボーイ。しかし爪や脚元に度々問題を抱え、万全な時は稀でした。
飛節炎を発症し皐月賞を回避した後、ダービーは1番人気に支持されながら距離が長く15着に敗れました。
7月、中日スポーツ賞4歳S(GIII)で皐月賞馬ヤエノムテキを差し切って勝利した後に臨んだのがこの函館記念でした。北の地でサッカーボーイが魅せたパフォーマンスは彼のキャリアの中で一番のものだったのです。
続くマイルチャンピオンシップでGI・2勝目を挙げた後、有馬記念では同世代のオグリキャップ、スーパークリークらと対戦し3着。その後、骨折や蹄の病気、脚部不安が続き、復帰は叶わず引退となりました。
その馬名から「弾丸シュート」という異名がついたサッカーボーイ。速すぎるが故に脚部不安がつきまとったという意味では、脚質こそ違えどサイレンススズカと重なる天才ランナーだったのだと思います。
父としては菊花賞馬ナリタトップロード、秋華賞馬ティコティコタック、GI・3勝馬ヒシミラクル、ダートのキョウトシチーらを出したサッカーボーイ。ご存知の通り、ステイゴールドの伯父にあたり、一族にはショウナンパンドラらもいる血統でもあります。
今年も函館記念がやってきました。
レコードタイムの欄にサッカーボーイの名前を見て、美しい栃栗毛の馬体と弾むようなフットワークを思い出すオールドファンは、きっと多いのではないでしょうか。