競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。今回のテーマは「アスコットとベルリン五輪」です。
連日、熱戦が続いているパリオリンピック。
競馬との関連も深い馬術競技では、馬場馬術、クロスカントリー、障害馬術の3種目で競う総合馬術の団体で日本が銅メダルを獲得。日本の馬術競技でのメダル獲得は、団体としては初、競技としても1932年ロサンゼルスオリンピックの障害飛越で西竹一(バロン西)が金メダルに輝いて以来、実に92年ぶりという歴史的快挙となりました。
快挙達成のひとり、JRA馬事公苑所属の戸本一真選手はJRAのビッグレースで誘導馬に騎乗するなど競馬ファンにもお馴染み。3年前の東京オリンピックの総合馬術・個人で4位に入り、日本選手89年ぶりの個人種目入賞を果たした戸本選手は2大会連続のオリンピックで、今回は団体銅、個人5位入賞という素晴らしい成績でした。
ところで、過去には馬術競技の日本代表としてオリンピックに出場した重賞ウイナーの元競走馬が存在するのをご存知でしょうか。
先ほども名前が出た1932年ロサンゼルスオリンピックの金メダリスト・西竹一(バロン西)の2度目のオリンピック出場となった1936年ベルリンオリンピックで総合馬術のパートナーとなったアスコットです。
1928年に宮内庁下総御料牧場で生まれたアスコットは、祖母が1907年に小岩井農場が日本に輸入した20頭の基礎輸入牝馬の1頭プロポンチスで、アイネスフウジン、ハクタイセイ、レガシーワールドらも同じ牝系です。
アスコットは尾形景造(尾形藤吉)が調教師と騎手を兼務し1931年の秋にデビューしました。翌年1月に鳴尾競馬場での大禮記念(天皇賞のルーツ)で優勝すると、秋には根岸と目黒の帝室御賞典(天皇賞の前身)でともに2着。さらに翌1933年春には目黒での帝室御賞典と第3回目黒記念を制し、通算35戦17勝2着13回という輝かしい成績で競走生活を終えました。
競走馬引退後は種牡馬入りせずに馬術競技馬として転用されることになったアスコットは、金メダリストの西竹一が訓練を担当しました。西の金メダル獲得のパートナーとして有名なウラヌスはフランス産馬だったので、アスコットには日本産馬でのメダル獲得に期待がかけられていました。
ナチスドイツの体制下、ヒトラーが大会総裁を務めた1936年のベルリンオリンピック。西は現地入り後に風邪をひき高熱を出してしまい、薬で強引に熱を下げ、総合馬術競技の当日を迎えました。
初日の馬場馬術は34位と出遅れてしまった西とアスコットでしたが、36㎞のコースを走破する2日目の野外耐久審査は、途中で沼にはまり泥まみれになりながらも5位に入って総合11位に浮上。最終日の障害飛越も無難にこなして、50頭中12位の成績を挙げました。
その後アスコットは、1940年に予定されていた東京オリンピックに向けて訓練を積んでいましたが、戦況の悪化で大会は中止。尾形も西もアスコットの競技馬としての大成を確信していただけに悔やまれます。時代の混乱の中でアスコットの最期についての詳細は明らかになっていないそうです。
最近では引退競走馬のための乗馬競技大会も行われています。元競走馬がリトレーニングされ、馬術競技馬としてのセカンドキャリアを送れることは、私たち競馬ファンにとっても嬉しいことです。
今とは時代が異なる遠い昔の出来事ですが、今なおつづく目黒記念の第3回の優勝馬がオリンピックに出場したのは事実です。いつか、競馬場での活躍を知る競走馬がオリンピアンになる姿をこの目で見てみたいものです。