競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「1本の大きなイチョウの木」について。
今回は1本の大きなイチョウの木についてのハナシです。
▲新木戸の大銀杏
今月中旬に撮影しに行ったものの、今年の高温のせいか、まだまだ葉が緑色だったイチョウの大木があるのは、東関東自動車道・冨里IC近くの千葉県富里市七栄。この辺りの地名から「新木戸の大銀杏」と呼ばれています。
実はここ、かつて「千葉社台牧場」のちの「社台ファーム千葉」があった場所。社台ファームやノーザンファームといった世界屈指の競走馬生産グループ「社台グループ」の原点の地というべき場所なのです。
戦前の1940年、吉田善哉さん(吉田照哉さんや勝己さんらの父)は、畜産家だった父・善助さんが北海道白老の地に開設した社台牧場の千葉富里分場の場長を任されました。しかし太平洋戦争の戦況悪化で従業員たちは徴兵され、一人で切り盛りしていた自身も結核を患い、「重労働・病・飢え」という三重苦の日々でした。
1943年に競馬開催が中止となると、翌年、牧場は一時閉鎖。1945年、善哉さん23歳の時に父が他界し、白老とともに土地を引き継ぎましたが、終戦後、GHQの農地開放政策により、千葉冨里の土地40haのうち36haが地主不在として接収されてしまいました。
当時の民法上では土地は家督相続で土地名義は長兄のものでしたが、その長兄が病気療養中だったことから、不在地主同然であるとされたのでした。
あまりに理屈に合わないと異議を申し立てた善哉さんは、長い闘いと交渉の末、8年後の1953年に「吉田善哉」名義で払い下げる形で土地を取り戻します。そして2年後の1955年、名称を「千葉社台牧場」と改め、8頭の繁殖牝馬をもって独立。吉田善哉さんの競走馬生産の挑戦が始まりました。
千葉冨里の地は競馬場に近く、馬主に馬を見せるにも最適でしたが、夏の暑さで馬の体力が奪われてしまうという問題がありました。アメリカで先進的な生産・育成方法を見た善哉さんは、千葉社台牧場の土地の一部を売却し、北海道白老に新たな土地を購入。千葉社台牧場社台分場(現・白老ファーム)として開設しました。
「北海道で生まれ、千葉でトレーニングし、北海道で休む」という二元育成法をスタートさせたのです。
当時、善哉さんがアイルランドから輸入し大成功した種牡馬にガーサントがいました。1970年のリーディングサイアーにもなったガーサントは後継種牡馬には恵まれませんでしたが、「ダイナカールの母の父」として、今の日本競馬にも大きな影響を与えつづけています。
1962年、千葉社台牧場は「社台ファーム千葉」、千葉社台牧場社台分場は「社台ファーム白老」と改称されます。そして4年後、牧場に大きな転機が訪れました。新東京国際空港の建設地が成田の三里塚に決定したのです。
空港建設によって生じる「立ち退き農民」へ代替地を用意する必要性から、近隣の冨里にある牧場の地価が高騰しました。善哉さんは、順次、土地を売却して巨額の資金を手に入れ、北海道早来の社台ファーム早来(現・ノーザンファーム)やアメリカ・ケンタッキー州のフォンテンブローファームを開場。さらに1978年にはフォンテンブローファームを売却し、今度は社台ファーム千歳が開設されたのでした。
千葉県富里市七栄。高速道路のインター近くで大きなショッピングセンターとバスターミナルがあるこの地が「世界の社台グループ」の原点の地であったという説明書きや痕跡は今はどこにもありません。しかし、当時から牧場の「表札」代わりのようなものだったいう大きなイチョウの木は今も大切に残されています。
大銀杏が鎮座する公園の周囲には牧場を連想させる白い柵が並び、案内板に描かれているサラブレッドのシルエットは、確かにそこがかつて「千葉社台牧場」や「社台ファーム千葉」だったのだと教えてくれているのです。
▲新木戸大銀杏公園の案内板と牧柵
きっと善哉さんにとって、この地は戦時中や終戦直後の「艱難辛苦」の思い出ばかりだったかもしれません。しかし、競走馬生産の挑戦が始まり社台グループの礎が築かれたのは確かにこの地でした。そんな様子をずっと見守っていたであろうイチョウの木は、グループの繁栄を表すかのように、今も大きな枝葉を広げています。
▲ノーザンホースパークの吉田善哉とノーザンテーストの像