競馬キャスター・大澤幹朗氏がお届けする、知れば競馬の奥深さがより味わえる連載『競馬キャスター大澤幹朗のココだけのハナシ』。
今回のテーマは「日本競馬史上2頭目、戦後初の三冠馬・シンザン」です。
亀谷競馬サロンの皆さま、あけましておめでとうございます。2025年最初のコラムです。この年末年始、複数の方から「大澤さんのコラムを楽しみにしています」とお声がけいただき、大変励みになりました。今年も競馬観戦がより味わい深いものになるようなコラムをお届けできるよう努めますので、どうぞよろしくお願いします!
さて今週末の中央競馬は3日間開催です。その3日目となる13日(成人の日)、今年は中京競馬場を舞台に明け3歳馬のマイル重賞「シンザン記念(GIII)」が行われます。
言わずもがな、日本競馬史上2頭目、戦後初の三冠馬で、天皇賞・秋、有馬記念も勝ち「五冠馬」と呼ばれた名馬シンザンを記念したレースです。そこで今回は、今から60年前に大活躍したシンザンを知るための8つのキーワードを紹介していきます。
(1)武田文吾
シンザンの管理調教師。尾形藤吉とともに「東の尾形、西の武田」と並び称され、五冠馬シンザン以外にも二冠馬コダマ、二冠牝馬ミスオンワードなど数々の名馬や、栗田勝(シンザンの主戦)、福永洋一(福永祐一調教師の父)といった名騎手を育てたことでも知られる。
(2)ウメノチカラ
三冠馬シンザンの好敵手。皐月賞3着、ダービー2着、菊花賞2着(いずれも勝ち馬はシンザン)。父はシンザンと同じヒンドスタン(1960年代にリーディングサイアー7回獲得、年度代表馬3頭を輩出した大種牡馬)。デビュー前はシンザン以上に期待が高く、同じ日にデビューする予定だったシンザンの武田文吾師は「わざわざ負けに行くことはない」と言ってデビューを1週間遅らせた。
一方で、ウメノチカラの主戦騎手・伊藤竹男は初対戦のスプリングS(1着シンザン、3着ウメノチカラ)の時点でシンザンには敵わないと思ったという。
(3)橋元幸吉
シンザンのオーナー。石川県珠洲市の農家出身で、名古屋での運送・運搬事業で材を成し馬主資格を取得。武田師の紹介でシンザンを所有することになったが、当時、事業の資金繰りが苦しかったことから、九州の炭鉱王・上田清次郎から購買を持ちかけられ、スプリングSの後、これに応じようとした。しかし武田師が「売るなら、私の命を取ってからにしてくれ」と反対してこの取引は流れた。
ちなみに、幸吉の死後に馬主資格を取得した弟の橋元幸平は1991年の有馬記念で15頭中14番人気とう低評価ながら優勝したダイユウサクの馬主。
(4)鉈の切れ味
皐月賞でのシンザンのレースぶりを見て「三冠を取れるかもしれない」と感じた武田師は、4年前に自身が管理しクラシック二冠を制したコダマと比較して「コダマはカミソリ、シンザンはナタの切れ味。ただしシンザンのナタは髭も剃れるナタである」と評した。
(5)武田流
1964年の夏は40年ぶりの猛暑。武田厩舎がある京都競馬場で調整していたシンザンは夏負けのため10月に入るまで本格的な調教ができなかった。
「一度のレース出走は3回分の調教の効果がある」という理念を持っていた武田師はレースに使いつつ鍛える方針を立て、オープン競走、京都杯と連続して2着。三冠がかかる菊花賞ではウメノチカラに次ぐ2番人気に甘んじたが、見事、セントライト以来23年ぶりの三冠を達成した。
(6)シンザン鉄
古馬になった1月、厩務員の中尾謙太郎(のちにファイトガリバーで桜花賞を制するなどした調教師)はシンザンの右後ろ脚の爪が出血しているのを発見。シンザンの後ろ脚の脚力が増した結果、踏み込みが深くなり、後ろ脚が前脚の蹄鉄にぶつかっていることが理由と判明し、後ろ脚の蹄鉄に通気穴の空いたスリッパのようなカバーを付けて後ろ脚の蹄を保護。かつカバーがぶつかる衝撃から前脚の蹄鉄を守るため、前脚の蹄鉄にT字型のブリッジを張った「シンザン鉄」と呼ばれる蹄鉄を考案した。
シンザン鉄は通常の蹄鉄に比べ2倍以上の重量があったため、脚部に負担がかかり故障を招く恐れがあったが、シンザンはリスクを克服した。
▲京都競馬場のシンザン像とシンザン鉄
(7)大川慶次郎
“競馬の神様”と呼ばれた大川慶次郎は1度もシンザンに本命を打たなかった。理由の1つは背中がへこんでいる「背ったれ」の体型だったこと。しかし大川は「シンザンにはその体型に勝る大きなものが内在していた」として「間違っていたのは私がそれにきづかなかったこと」としている。
また、調教で動かなかったことも理由の1つだったが、武田師は「シンザンはゼニのかかっていないときは走らん」とコメント。大川は調教の時計は実戦とはあまり関係がないと教えられたという。さらにシンザンは着差を大きく広げて勝つことは少なく、レコード勝ちも一度もなかったが、大川は「着差は決して馬の能力のバロメーターにはならない」ことを教えられたと述べている。
(8)日本最長寿記録
種牡馬としてのシンザンは1981年の菊花賞馬ミナガワマンナ、1985年のクラシック二冠馬(皐月賞・菊花賞)ミホシンザンらを出した。種牡馬引退後は浦河の谷川牧場で余生を送り、1967年に老衰により死亡。35歳102日の生涯は当時のサラブレッド日本最長寿記録で、GI級競走勝ち馬としては現在も最長寿記録である。
なお、シンザンの血を引く主な馬に、2013年に牝馬GIを3勝したメイショウマンボ(母母母母母父がシンザン)、浦和・小久保智厩舎の5歳馬で南関東の重賞を4勝しているヒーローコール(母母母母父がシンザン)などがいる。
東京オリンピックが行われた1964年。戦後初の三冠馬シンザンはセントライトの23年後に誕生しました。その後、3頭目の三冠馬は19年後のミスターシービーまで現れず、翌年シンボリルドルフが登場するまで「シンザンを超えろ」が日本のホースマンたちのスローガンでした。体型、時計、着差には現れない、特別な精神力を持った昭和の名馬。令和の今、その偉大さについて語り継いでいくことは決して意味のないことではないはずです。
▲馬の博物館(休館中)のシンザン像